脳内雑記 ~黄昏Web屋のデフラグ~

手書き出力と同時に、脳内の言語化活動への作用がどう変化するかの実験

オリンピック神が全ての恨みを引き受けよう

タイトルが全てなんですが、「この世の全ての怒り、恨みを買って出るぜ」という勢いですね。本意ではないでしょうが笑

 

僕らの感覚からすると「なんで?」でしょうが、この選択に至る思考を考えると、公的な思考というよりかは、マーケティングとかの発想に近い気がするんですよね。

 

ターゲットを決めて、施策を打っていく。今回だとスポーツ団体やスポンサー企業などの「特定されるターゲット」に利益になるよう施策を打つ、判断する連続だと考えると、そのターゲット以外がどうなろうがあまり関係ない。いわゆる選択と集中なわけで。

 

最優先は、特定ターゲットのメリットだしそこにフォーカスして、手を打っていく。ビジネス的にはその方がよく見る風景なわけです。

 

でも公的な施策の根底は、国民の安全を守るとか、豊かな生活を送るように頑張るとかそういう所であって、実は特定ターゲットじゃないんですよね。優先度的にはそちらが優位な訳です。建前と言われようとも「全員に」なんですよ。主語は。

 

特定ターゲットへの施策は、全体最適に向けた1施策でそれが回り出すと、全員が享受される部分もあります。おそらくここ何十年かは「それでうまくいった」という成功体験もあるんだと思います。よくある成功体験があるが故の変化できない典型なのでしょうが、いま客観的に見てうまくいってないのも事実なんですよね。

 

昔、少しパブリックデザインとかも横目に見る機会あったんですが、いわゆる「ターゲットが全員」って実はコストもかかるし、苦労の割に評価が低いのを見ていてマーケターの「ターゲットは特定すべし」は経営層にはわかりやすく、判断しやすい。だから同じように公的な分野にも長年かけて展開してきたんだと思います。

 

過去の歴史を見るに、この揺り戻しというかターゲットの幅の変化は常にあって、ある閾値を超えると極端な方向に行くんですよね。今回の件も大いなるオリンピック神を生贄にどこへ進んでいくんだろう。