脳内雑記 ~黄昏Web屋のデフラグ~

手書き出力と同時に、脳内の言語化活動への作用がどう変化するかの実験

あなたの経験はあなたが一次情報源

ここの記事を読んでいて。

だがあなたの経験はあなたが一次情報源だ。誰も同じ経験はできないし、その経験自体を否定することもできない。経験に正しいも間違っているもない。あるのは嘘か本当かだけだ。

 

なるほど、たしかにそうだと。すごくシンプルな話なんだけど、重要なことだよな。と思ったのでメモしておきます。にしてもnoteとこっちを両方書くのは難しい。 

 

しばらくこちらは引用的な扱いにしたほうがいいのかもしれない。

悪態しかつけない、芸というのは「いと悲し」

 

 ふと思うわけです。

例えばオンライン落語をするとどうなるのかとか。

 

  • zoomで一方的にした場合、お客様の反応がない中の話芸は苦しそうだ
  • 仮に観客も発言ができる場合、慣れると違う話芸で消化できるかも?
  • 落語に行く理由は集まって、笑って和やかな気持ちになる場だから
  • その場を新たに作ることで先鞭を切ることができるのではないか?

 

文化度の高まりと「型」の重視は、相関関係があって

その「型」のせいで、外的要因による変化に巻き込まれ

どん詰まりになっている気がする。

 

確かに、お年寄りがzoomを使うハードルは高かろう。

けど、選択肢がなくて、本当に好きならトライするような。

 

それを挑戦しないということは、実はファンではなく

その場はラクな暇つぶしで利用されていたのかと疑ってしまう。

 

確かに不条理なことは多いし文句の一つも言いたいのも理解できる。

別に文句も言ってもいいと思う。ストレス発散は重要。

 

けど、従来のやり方以外は、受け付けないというのは

芸としての停滞なのではないかと思ってしまう。

 

いつから芸事は、骨董品の保存会になったのだろう。

本来芸事こそ破壊的なイノベに満ちた業界であるべきと思うのだが。

 

ウィットに富んだコメントを

この業界で聞くことは最近ないように見えるのだが、

いい意味での反骨心が芽生えてくれると嬉しいのですが。

変わる映画館、ミニシアター

 

このあたり面白いのは、米国においては
もはや封切りと同時にオンライン配信という流れができつつあり、
映画を見る場所はもはや映画館ではないという動きを
配給側が進めているということである。

 

聞いた話だと、米国は配給会社と映画館は別会社だが、
日本では配給会社と映画館が一体化していることもこの動きの加速の背景にある。

 

まあ、その場合わりを食うのは映画館と、
映画を制作している側になるという問題はあるのだけど。

 

日本の場合「昔良き文化を守ろう」的なトーンで語られるけど、
大画面で一体感持って見れるという特徴をもった媒体
という部分を生かしていくしかないのかもしれない。
もしくは、見れる選択肢を広げるとかね。

 

どちらにせよ同じやり方で、「ずっと守っています」
というのはちょっと違うのではないかと感じています。

 

実際一定数「変わらない安心感」というのが売りになるものがあるけど、
「変わらないからいいよね」という人が、映画館に頻繁に来るのかというと
そうでもなくて、こうした言いたい放題言える場で
「変えるとは何事だ」というのに過ぎなくて。

 

現状来ない状況であるならば、
死をざして待つか、死ぬ前にアクションするか
どちらかかなと思ってしまいます。

 

まあ、お前も外野からの言いたい放題だろうと
言われると反論もできませんが。

 

ほんと、変革期における「次の一手」は難しいですね。

科学技術立国の終焉を場末で見る

20年ぐらい前までは科学技術立国という固有名詞で語られていたはずが、おそらく今は科学もなければ技術もない国に成り下がっているのは間違いない。

成長に至るパワーとその過程は苦労の割にリターンが少ないけど二世のボンボンが親の財を食いつぶすのに時間がかからないのと同じで、いま僕らは過去の資産を急速に食いつぶしている。

 

面白いのは食いつぶしている本人たちにはおそらく自覚がなくて、「まだ大丈夫、きっと大丈夫、多分大丈夫」とお経のように唱え、多分何が大丈夫かすらわからなくなってきているのだと思う。

最近、科学的根拠を語ると他方から理解できないがゆえの感情的な批判がぽろぽろと出ているように見える。

 

これは自分の記憶をたどると幼少のころからクラスで論理的なコメントをしたときに「意味のわからないことを言わないで」と非難された。それは同級生でもあり当時の先生のケースも散見された。

そこで他人が理解できないことを言うことを留意するきっかけになったのだが、論理的・科学的に証明されていても、説明が複雑になった途端に伝わらず、誤った判断をする機会を多く見てきたあの時代の違和感と感覚的には近い。

 

面白いのは、正しい行いをする人が必ずしも人の上に立つわけではなく、その時の時流が、上に立つ人を呼ぶというか論理ではなく感情でトップというものは決まっていくのは、もしかすると日本的な性なのかもしれない。

どちらにせよ、一回ここまで来ると、一度崖に落ちきらないといけなくなるわけで、それもちょっと悲しいよなと思いつつも、場末の人間からするとことの推移を見極めて逃げ切るだけで精一杯と思うので、常に注視していかなければならないと感じています。

オンラインうどんタクシー

コロナ禍の中、いろいろなサービスが登場していたりする。オンラインツアーもその中の一つだと思うけど、結構攻めていたりする。

www.kotobus-tour.jp

 

情報を見ると以下。

 

単にうどん店のご案内や観光地の景色を動画で見せるだけでなく、うどんタクシー専任ドライバーの案内を聞きながら、旅先の現地の方や他の参加者とも会話しつつ、うどんの歴史や文化について学び、体験します。家にいながら旅行気分を味わえる「バーチャルとリアルの融合」を目指した、全く新しいタイプのオンラインサービスです。

いや、ほんとにこういうの企画だけで実現までいかない類のそれなのに、このご時世だと勢いでやってしまうんですね(褒めている)。

 

どうしても、世の中後ろ向きだし、相手を叩いて満足するような空気感になっているけど、このようなやってないことをやるサービスは、頑張れと応援したくなるしうまく行ってほしいと思っています。いいツアーがあれば申し込んでみるかな。 

雑談相手がいることの有用さ

noteの記事の悩ましいところは、毎日継続しているがゆえ、一定数の「いいね」がつくのは良いのだけど、つかないとつかないで「変なこと書いたのかな」とか、いろいろ考えてしまう。

 

けど、ここはあまり更新しないから「思ったまま、何も考えず書く」というのには向いてる気がしている笑 いや、なんの役にも立たないことを書くなよと言われても、そうなんだけど、在宅勤務になって「意味のない立ち話」ができないため、自分の思ったことを相手に当てて整理するということができなくなっているんだよね。

 

これは案外不便で、ヤン・ウェンリーに対してユリアン・ミンツがいたような、「適切な話し相手」というのは必要不可欠なんですよね。在宅勤務における「雑談相手の不在」というのは、案外ダメージがあったりするわけだ。

はてなブログのGoogleタグマネージャー設定について

 1年以上noteで記事を書いていたのですが、GoogleアナリティクスとGoogleタグマネージャーでの設定や肌感を得る機会を私用の時間でも習慣化しておきたく、こちらのブログも暇あれば記事を書いていこうと考えております。

今回設定するにあたり、以下のサイトを参考にさせていただきました。ありがとうございます。